言葉の無責任さについて

言うのは簡単。 やるのが大変。

 

例えば、テニスのコーチに行くとして、口だけで自分ができないことを教えようとするコーチと

 

自分ができて言葉でも説明できて実際にプレイして見せて教えることができる。

 

どっちが生徒にとって分かりやすくてコーチングがしっかり頭に入ってやる気が出て、実際に練習をし始めるのか。

 

こんな例みたいに言うだけじゃ伝わらない。実際やるのは本人だから。軽々しくこれやってみたらとか

 

これやれよとか 俺はこうして成功してきたからお前もこれをすれば成功する だからやれとか 

 

僕の価値観の中では、指導をするに当たって指導を受ける人がどういう心境にあるのかを考えます。

 

いきなり答えを教えたら、理解できないか、もしくは成長が止まる。

 

受ける人がどうしても何にも分からなくて考えることもできなくて助けを求めている時は

 

道を作ってあげるみたいな感覚でハードルの低い'所から教えたりとか'、自分ができることで、自分が体験してきたことで

 

アドバイスとして導いていく感じ。

 

でも、受ける人が悩んでる時、考えてるとき、そんなときにわあわあ詰め込む感じで色々アドバイスとかしちゃうと

 

その生徒はせっかく悩んで自分で考えて答えを探そうとしてる そんな時にアドバイスすると

 

その生徒は考えることが無駄になっちゃう。考える力が身につかない。自主性ってものが育たない。

 

指導者がこれから先、その生徒に対して生涯を保証できるわけがないので、

 

伸ばすべきは自分で考える自主性ってものと頑張れるっていうモチベーションを作ってあげること

 

なんでもかんでも教えればいいわけじゃなく、 聞かれた時に答えたりとか 

 

まず、自分ができてるなら自然と生徒は自分の方から尋ねてきます。

 

「サーブが入らないですよ」とか「試合で負けが続くんですけど'原因がわかんないです」など

 

言葉には責任を持つべきだと思います。言葉で人は変わっちゃうから、いい方向にも

 

悪い方向も。この言葉の責任に対して解説している僕は、できてるんですかと考えてみれば

 

100%できてるとは言えませんね。この世界の中で矛盾の世界が成り立っている中で、正解を探そうとすると

 

見つからないですね。 だから少しずつでもいいから 大きな失敗をせずに過ごせるよう

 

勉強をしていくことって 大事だと思います。 勉強は辛いことじゃなくて 知らないことをどんどん知っていくことができるし

 

知ることで 悩んでる苦しんでる人に 教えて救ってあげれるかもしれない。 勉強はすることで人のために生きることの力がつくものだと

 

思います。 成長を高い意識を持って低いハードルからどんどん越えていき、目の前の階段を一段ずつ登っていき

継続できれば、'気がつくと、より一層高い場所まで階段を登っていて、そこから見える景色はとてもきれいなんじゃないかと思います。

 

人生にゴールはないと思います。人生とは一冊の問題集。一生勉強だと僕は思います。