僕の歩んできた人生
0歳6ヶ月の頃から保育園に入っていた。
年長の時、サッカーボールをガラス扉にシュートしてバリバリに割ったことがある。
小学2年の頃、髪型が坊主頭だったから一学年上の怖い先輩にハゲハゲ言われて小突かれたりして虐められていた。
ある日いじめに'我慢できなくなって首にぶら下げていた鉄の水筒でぶん殴ってボコボコにして戦ってみたら
次の日先生に呼び出しを'先輩と二人呼ばれて怒られた。でも、お互い悪いってことなっていて、お互いが謝りあって、
それ以降その先輩とすごく仲良くなりました。いじめられっぱなしもよくないですね。暴力もよくないですけど
僕は勇気を出して戦い、状況を好転させました。
小学2年の頃は、ちょうど転校生が来ました。僕は真っ先に声をかけていつもその転校生とサッカーボールを蹴って遊んでいました。
僕はその頃、サッカーがとても好きでした。授業が終わり、放課になると必ず一番にサッカーボールを持ってみんなとサッカーをしました、。
しかし、小学3年の頃、親の勧めの元、豊田リトルリーグに入団しました。少年硬式野球チームのことです。その当時は
学校が土曜日もありました。学校が休みの日曜日は硬式野球の日々でした。とても練習が厳しく何度も辞めたいと思っていました。
いつしか仲間との絆もできて、辞めて仲間を裏切るようなことはしないと、歯を食いしばって野球と闘っていました。
小学5年のとき、堂林翔太選手とチームで合流し、一緒にプレイする機会がありました。ブルペン捕手で堂林選手の投球を
受けていた時もありました。何度も何度も親指とか突き指したり、小学生にして球速100キロ近くの球を必死に食らいついていました。
そんな堂林翔太選手と僕が打者として対戦する機会がありました。1球目。内角のストレート。振ればデッドボールするんじゃないかと
思う球を見送るとギリギリ入っていてストライク。2球目。なんとかバットに当てて打ったが重い球質で手が痺れて、ボールはゴロで
完全に打球は死んでいました。
小学6年生最後の大会の時、僕は2塁手で守っていて試合に出ていて、東海大会を優勝しました。
次の全国大会では、ノーヒットノーランを食らい、相手からはツーランホームラン1本打たれ一回戦敗退。
みんな泣いていました。監督言った言葉は、この雪辱は甲子園返せ。と言われました。
時代がすぎ堂林翔太選手は中京大中京高校に入学し最後の大会で甲子園優勝を果たしました。
小学校で味わった悔しさを甲子園で全国制覇という結果に変えることができました。
彼はその後、ドラフト2位で広島カープに野手としてプロ野球選手になりました。
そう言ったスター選手と僕は小学生の頃に一緒にプレイしていたことを誇りに思っています。
彼はプロの世界ではなかなか1軍で結果を出せなく、それでも僕は応援しています。
これからのブログの中で堂林翔太選手の試合結果など成績や評価など書くこともあります。
小学6年生、硬式野球最後の大会が終わり僕は野球を引退しました。
その後、迷いなくずっと我慢してた本当に自分がやりたかった種目のサッカーを本格的に始めました。
クラブチームに入って、早々ダブルハットトリックを決めたり、少し立派な球場で親も見ている中準決勝で
ハーフライン位置から相手キーパーが前に出ているのを感覚で感じて決勝ロングシュートを決めたりと
決勝戦では負けたが、銀メダルを獲得しました。
小学校開催のブロック大会では優勝を決めたり。小学生の時点でスポーツの分野ではメダルだらけでした。
それは仲間に恵まれていたとチームのみんなと後、支えてくれた監督やコーチ、そして親など
たくさんに人のおかげで僕は楽しくスポーツをやらせてもらっていたと今では思っています。
中学に上がると3年生の先輩たちが引退した後、ボランチというポジションでレギュラーになることができました。
遠征に出かけてジュニアクラブチームとの対戦が多かったです。ジュビロ磐田のジュニアクラブチームと対戦したときは
全く勝てる気がしなくて、自信を無くしました。
自分のチームが弱いんじゃないかと疑い、僕は仲間を裏切りサッカーをやめました。それでも辞める間際、
キャプテンもいろんなチームメイトもたくさん止めに来ました。
僕がサッカーを辞める決定的なものは、中学1年生の時、元旦の休みに兄にテニスを教えてもらったとき、
テニスがやりたい。それ一心でした。もっともっとテニスがしたい。そう思いました。
中学2年でテニス部に転部した後、すぐに上学年の先輩とペアを組んで試合に出ました。
中学3年最後の大会ではチーム一番手の前衛として市内大会の予選を勝ち上がって、
決勝トーナメントでは一回戦敗退でした。
その一方、サッカー部は市内、西三河、県と全て優勝で進んでいき、東海大会3位で全国大会まで進みました。
僕が見捨てたサッカー部は弱かったんじゃない。クラブチームを除けば、中学校の中では滅茶苦茶強かったみたいです。
人生転機。
3年生の後半、双極性感情障害になりました。当時は躁鬱病と言われていました。
卒業間際退院したが気分は死んでいて、卒業式は式終わった後、誰とも喋らず一人で帰りました。
中学卒業時の評定は34ありました。
高校には無事合格して入学できました。
けれど入学3日でまた入院。その後退院した後は完全に鬱状態で家から一歩も出れませんでした。
生きている心地がありませんでした。
なぜかわからないですが、フラフラと街に出かけると、歌を歌っていた人がいて、なんか楽しい気持ちになれて
一緒に歌わせてもらった時、僕は路上ライブに憧れました。
アカペラで駅で歌う日々。
親は恥ずかしいからやめなさいというが、
そこで初めてギターの練習をするようになりました。
これが最初の僕の音楽と路上ライブとの出会いとギターを始めた頃でした。
高校は出席日数が足りなくなって留年が決まり、自主退学をせざるを得ませんでした。
それでもたまたま姉が行っていた高校が通信制と言われる場所で
お金もそんなに掛からなく4年通って卒業できる場所でした。
僕は高校を変えました。また1年生からやり直しです。
15歳から25歳までの間に何度も入退院を繰り返して
10年かけて僕は高校を無事卒業しました。
運がいいことに、高校最後の年ではテニス部ができて
県大会に出場し、3位になって全国大会出場の切符を手に入れました。
全国大会では、団体で優勝。金メダル獲得。愛知に金メダルと優勝トロフィーなど持ち帰ることができました。
ちなみにテニスといっても、正式にはソフトテニスであって、試合はダブルスしかなくて、
金メダル取れたのは僕だけの力だけでは決して届かないものでした。
ここでも仲間に恵まれました。応援してくれた顧問の先生や親もペアの子にも感謝しています。
高校卒業後、整体師が教えたもみほぐし店、「モミマス」というお店で働きました。
研修は2ヶ月で終わり、2018年9月にプロデビューしました。けれど6ヶ月後僕はこの会社やめました。
解剖学からカイロプラックティックの先生の指導の元、整体を行うのに必要な手技はマスターし、
次の段階はようやく整体師になるために整体学を学ぶところで僕は引退しました。
6ヶ月の間、指名をもらうこともあったり、腕が上がりづらくて服が着たり脱いだりするのが大変な人の腕を
あげれるように改善まで持っていった経験もあったり
とにかく歩合制の世界で6ヶ月で60万くらい稼ぎました。
ここでも感謝の心はあります。しかし、僕には苦痛を感じる時期がきて、続けることが困難な精神状態になったため辞めました。
やめた後また入院しましたね。2019年12月僕は16回目の病院生活から退院しました。
しかし、5月にまた入院。
1ヶ月で退院できましたが、僕の人生のほとんどが入院生活っていうのもありますけど、
とても暗い訳ではありません。
ずっと勉強をしています。
なんの勉強にあたるかわからないですけど、
ずっとノートとペンを持って
自分の世界を切り開いていました。
今では、中古のタブレットのパソコンでネット環境のある中でこうしてブログを書いています。
今回の記事は長くなりましたが、大まかな僕の人生でした。
スポーツの歴史と
音楽との出会いと
入院歴など。
この記事をここまで読んでくれた方には、僕の生きてきた道が
どんな道だったか、多少わかっていただけるかなと思います。
嬉しかった時もあるし、とても落ち込む時もありましたし、
まさに波乱万丈な人生。人生とは谷あり山ありと。
まさにそんな人生でした。
まだまだ続きますよー、僕の人生。
最後まで読んでくれてありがとうございました。